ハキダス。

成長痛ぅ〜の記録。今宵モ反省文提出致シマス。とてつもなく独り言。

対人恐怖症の原因をねほりんはほりんしてみた

私にとっての障害は対人恐怖のように思う。確実に。

それの元になったことを掘り下げてみるの巻。

 

 

 

登校拒否をした私への親と教師(大人)の対応

 

小学3年年の頃の夏休み明けから宿題ができなかったことの恐怖で学校に行きたくなかった。誰かにとってはそんなことで?って思うような出来事かもしれないし、私自身がそう思う節がある。だけど当時の私にとってはとてつもなく恐怖に駆られたのだ。その時の親の対応は絶対に行かせることだった。泣き叫ぶ私を無理やり車に連れ込んで小学校の校門についてからも車から引っ張りだし、暴れる私を抱きかかえ、パンツが見えても大暴れしながら泣き叫んで、登校中の生徒たちを横目にに学校へ行かせたのであった。それから、登校拒否を続けたけど、父親の意向で本当に無理やりほぼ毎日くらいそんな日々があった。教師も私を学校に行かせようとしたし、いつも泣いていた。泣いても泣いても拒んでも親や教師の対応は変わらなかった。正直あの頃のことをけろっとなかったことにしていたけれど、最近あの頃のことを思い出すと涙が出る、あの時の私は泣いてて苦しそうで、涙が出る。

なんなんだろう、安心感の欠如があった。不信感を植え付けられたのは確実だろうな。仕方がないと思うんだ。わかってる。今なら情報社会だから理解が生まれるのだろうけれど、私の時代は情報が気薄だったし、そら大した理由もわからねぇのに行きたくないといってだだをこねれば行かせるのか世間的にはフツーだったのかもだろうけど、確実に人への(大人)不信感とか、絶望感とか、安心感ははく奪されたというか、安心はなかった。不思議なことは学校に行けばフツーに教室で過ごすし、友達とも遊ぶし、しゃべるし、まったくひどいいじめとかあるわけでもなんでもなかったのだけどね。家に帰っても何もなかったかのようにケロッとしてるけど次の日また始まる。。という今思うと意味不明な感じ。

思い出したのは小4年の時、家にまで学校に来て、最初はやさしく諭すように喋ってたのに、拒んでたらキレられたこととか、いつも先生に腕でつかまれて拒んで拒んでを繰り返していたからつかまれた手を外すテクニックを覚えたこととか、中学1年の時班になじめずに、発表しなくちゃいけないやつを自分だけ言うところがなくて、それが怖くて学校行くの拒んだら、これまた無理やり学校に行かされ、担任の先生と教室で2人になって、なんか先生が自分のこと喋りだすけど、私ずっと泣いて机に伏せて、そんな状態でもクラスの教室にいかされるけど、私はずっと泣きながら机に伏せて、そんな状態で給食も食べれるわけもなくずっと泣いたままつくへに伏せて、髪の毛もぼっさぼさだった。そんな状態でやさしく諭したかとおもえば体育館へ連れていかされ、班の発表でひどい様で一緒に突っ立っていた。なんなんだろう。笑い話になるんだけど、やっぱりどうしても泣いて苦しむ私が私の中にいる。ほかにもあったけど、思い出せないから、また思い出したらかこう。ふぉふぉふぉ。なんなんだろう。ほんとう。なんなんだったんだろう。中学校の時はなんかもう諦めモードに突入できてて(?)宿題ができなくてももう馬鹿だしふつーにもう自分は頭が悪いんだって開き直っていた。幸いなぜか私の親は勉強はできなくていいから学校は行けという謎の主義だったことはある意味救いだったかもしれない。

 

でもどうしようもなく劣等生だし、一種の優越感を得ようとしていた。

 

 

 

中学の時に苦しんでいたことは、授業中におなかが鳴る恐怖症だったこと。めちゃくちゃ恐怖症だった。わかる人にはわかるはず。本当にこのことに苦しんだし、悩んだし、母と姉に相談もしたし、あまりの恐怖で、4時間目の授業にトイレでぐーぴたっていうおやつ的なものが売ってたんだけど、そのクッキーをこっそり食べてみたりしたけど、恐怖は消えないし、確実に意識しまくってるときのほうがおなかはすこぶる鳴るという最悪な仕組みであった。朝ご飯を一杯食べても、なるのであった。意識すればするほどおなかはなって恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかった。特にテストの時とか。静かな授業の時とか。

 な話ずれてるけど思い出した。

 

私が中3年の時に父親がうつ病になり高1の夏休みに自死したこと

できることなら、向き合いたくないけれど向き合わざるえない。心の中では毎日毎日よぎるし、何か連想することがあるたび思い出すし、なんだかもう、仕方がないってわかってるし、言葉にして向き合うことは最近できなかったからこの際書いてみる。

なんなんだろう、父親の死を利用して自己憐憫してんじゃないかとか、思ってしまうけど、(というかしてるし)たまーーにフラッシュバックして記憶がよみがえったり思い出したり、苦しくなったりして、それはそれで今を忘れられる苦しみと痛みの分泌物を脳みそに充満させて、今の苦しみから逃れようとしてる気がした。

 

父親がうつ病になってから部屋の中が苦痛だった。父親の何度も何度もはくため息が2階の自分の部屋に聴こえて苦痛だったし、あんなに支配的な父親が別人のようになって、私は全く理解できなかった。むしろ怒りや憎しみがすさまじく強かった。ちょうど反抗期が最悪のタイミングで被さって、私は父にうつ病の人にやってはならない対応をしていたに違いない。思い返すだけで絶望感とひどいひどい後悔にのたうちまわる、泣きながら書いてる。どうしようもないってわかっている。あぁこれも自己憐微なのかな、まあいいや。現実でこんなに吐き出せる場所もないからここではいいのー。なんなんだろう。本当に父親が自死したことで、世界が変わった。もう、変わった。見える世界も、あぁ、もうこれから世界が違うって感じたのを覚えてる。父親が自死した時の私の最初の感情はやっぱり怒りと苦しみだった。母の今まで聞いたことのない叫び声を忘れることはできないだろう。救急車が来て近所の人が集まって、近所の人がきっと連絡して来た母の一番親しい知人の人がなにがあったのか聞いてきたから私は「父さんが自殺した」と一言だけ言ったように思う。脇がまだ温かかったから、母と姉とで父を支えて首元のひもを近くにはさみが見つからなかったから包丁で切っておろして救急の電話の指示で人工呼吸したけれど、もう遅かった。スカスカ。それでも。救急車が来て、処置を一定やり終えて死を確認した。警察がやってきて事情聴取を受けて、何かを書く時の母の手が異様に震えていたのを覚えてる。(というか思い出してる)そのあとは、母親が信仰してる宗教の人が部屋に押しかけて、スムーズに部屋が片付けられ、葬儀のこともその宗教の人たちのなんかだったんじゃないかな。葬式には父親の知り合いなんてひとりもいなく形だけ葬式がスムーズに終わっていった。私は怒りと憎しみが強くてなんか泣かなかった。泣きたくなかった。 父親の母、ばあちゃんには姉が電話したんだけど死因を言えず(そらな)、葬式が終わって家に戻ったあとに何かの死因が書いてある書類を見て気づかれてしまったとき、あぁもう怒られるだろうなと何とも言えない空気、最悪な気持ちだったけど、おばあちゃんもおじちゃん(父の弟)も追及してこなかったからびっくりした。リビングで異様に和やかに夜ご飯を食べていて

私はシャワーを浴びていたときに、その時に父が死んだことが悲しくて苦しくてシャワーを浴びながら声を殺してはじめてそこで泣いた。

 

そういえば思い出すことは父がうつ病になり、仕事を辞めることになったときにばあちゃんに電話していたのだけど、そのとき父は責められたんだろうな。今まで見たことのない気弱で、泣いていた。

 

家族を集めて仕事をやめる話になったとき泣いてごめんねと言っていた、それすら私には正直理解できず、はぁ?って感じだった。あっそー。って感じだった。

 

それから数日か何週間は母と姉と3人でリビングで布団を置いて寝ていた。それから少しずつ何もなかったかのように日常に戻った。父親のことについて話すこともない。本当に。何もなかったかのように、言葉にはできなかった。することができなかった。

夏休み明けに学校に父親が死んだことを母が確か連絡をいれたけれど、理由を聞かれたときにどもるといいたくないなら言わなくていいといわれ、じゃあ言いませんと言った気がする。ちなみにその担任のことは嫌いだった。学校が始まってもなんかもう自分は前とは違うんだなっていう感覚がった。誰にも言わなかったし、別にいう人もいなかった。私は定時制に通ってたから、少人数だったし、クラスの人とは敵対意識を持っていたし、できた友達が中国人と一つ上の学年だけど年が20歳くらいのフィリピン人と一つ下の学年の年が2つくらい違う人だったいう書いてみたら特殊だなぁと思うのだけどそうゆう環境だったからそこまで別に言うこともなった。けれど家族の話になって父さんってどんな感じだったのと聞かれたときは普通だよ~っていったり、中国人の子の家に招待されてお母さんに聞かれたときは病死したといったし、もちろん自死したとは誰にも言うことができなかった。

 

父が死んだおかげで実家のローンは払わなくてよくなった。遺族年金が入った。

なんなんだろうね。

なんなんだろう。

父がうつ病になって生活保護を受給していたのかな、で、母はパートに朝から夜まで働いてでて、姉は朝清掃の仕事と、父親はインドカレーを自営業していたのだけど、その店をネパール人のコックさんに譲って、そのコックさんから姉は誘われて働くようになった。正直今思うとこのことも父にとってプライドをズタボロにえぐったんだろうなと思った。でも仕方がないよね、姉は定時制に入ってから店を手伝っていたのだから、いろんな背景が絡まって重なって父は死へ向かった。そんな気配なんて全く感じることもなく、あるわけないじゃん。そんなこと。と私は思っていたよ。私は窮屈な中学からやっと解放されて希望に満ちていたから、父親の存在が疎ましくて仕方がなかった。私にいろんな仕打ちをしてきたのになんなんだよって怒り憎しみです。負の連鎖が重なって父は死んでしまった。母が言ってた「父さんが自殺しようとしたんよ」と。自殺未遂をしていたらしい。全く理解できなかった。そんなわけないじゃん。ただ気を引こうとしてるだけじゃん馬鹿じゃないんって。第一うつ病というものも全く理解できなかった。嘘でしょ。んなわけないじゃん。父親がうつ病なわけないじゃん。って思ってた。

私はある時父親の存在が疎ましくて仕方がなくて死ねばいいのに死ねばいいのにって念じていたときがあった。現実になった。

なんなんだろう。何とも言えない絶望感。

私の場合は父が死んでから、ある種の解放感もあった。あぁもう、父親の許可を得ずに好きなことができるとか、顔色をうかがわなくてもいい。そんな感情も正直あった。

高校の時とか専門学校の頃は父のことを考えずに進んでいたように思う。ときどき思い出しては苦しくて泣いたときもあったけど、夢中になっていることが希望できらめきでそれなりに楽しく生きてた。専門をやめて、挫折をし、バンドを組んでみても自己主張ができなかったり、つらくなってやめて、それから数年はバイトと家とネットの往復で無気力感に支配されていた。これは父親のことがあるからなのかわかんないけど、なんだかもうだめだなっておもったり、成人式の準備が間に合わずというか、誰も何も言わないし、自分自身同級生に合う自信がなかった。挫折無気力まっしぐらで、成人式の日テレビに映る華やかな振袖集団を見て泣いた。フェイスブックををのぞいてしまって、つながっている当時の友達の写真を見てしまって劣等感で泣いた。今となっては行きたかったんかーいっていって笑えるのだけど。本当苦痛だったなー。

とまた話がずれた。

 

もういいか。このくらいにしよう。

 

 

最近新しくバイトを初めて新しい対人関係を築かないといけなくなった不安と恐怖の原因は対人恐怖症だーとおもってその原因を探ってみようと思って書いてみたらこんな感じとなりました。

 

 

 

なにもかもなかったことのように楽しいことを探して毎日生きていけたらそんな楽しいことはないのだろうけど、私にはどうしてもどうしようもなく悲しみが心の軸になっている。

 

 

楽しいを軸にしている人の思考と私の思考は全く持って違うんだろうなって思って

得体の知らない恐怖と嫌悪がそのまま自己嫌悪につながってしまうのは、区別したいです。

今日は泣きながら書いたおブログでした。ちょっとは浄化できたかな。涙は痛み(ストレス)を浄化してくれるから、涙が出るんだって。